ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0146 寒風の早春賦

人が人に恋心や恋愛として惹かれる時、具体的にどういう相手に惹かれるのか。

似た気質や外見に惹かれる場合もあれば、異なる性質に惹かれる場合もある。

その視点から見ると、ゲイであるというのは、そのありようがある種とてもわかりやすいなあ、と思う。

シンプルに見た目の好みや性的なファンタジー、フェチの好みから肉体関係だけで完結させるという割り切りをする人が多いのは、結婚することや家庭を築くという前提がそもそもないからであり、そのことで逆に、恋人として付き合うという決め事にとらわれず、恋愛ごとでの人と人との関わりにおいて、自分が何を望んでいるのかについて自分軸をぶらさずに済む、とも言える。

見た目の好みやフェチ、萌えるポイントについて講釈つけるのは野暮。人それぞれである。焦点を当てたいのはそこではない。

なぜ、特定の気質を持つ他者に恋愛感情や劣情を感じるのだろうかというところなのだ。

小柄な人は自分より身長が高いとか体格がいい人に惹かれたり、またその逆もあったり。若い人が知性や経験値、包容力に魅入られて年上を求め、年上は自分がロストした若さを欲して年下を求めたり。自分にないもの、欠けているものを無意識に補うため、なのかもしれない。

じゃあそれは自身の劣等感や不全感、コンプレックスの裏返し、または、自分もそうなりたいと憧れるロールモデルとしてなのだろうか?と思うと、厳しい鍛錬をして筋肉質な肉体を誇る人が、相手にも同じような素養を求めて恋愛の対象に設定する人もいる。

ふむ。それは自分と同じ価値観を求めているという意味に取れるし、必ずしもコンプレックス、ではないのかもしれないな。

自分の努力や価値を承認し合うことで、自分のやっていることにOKを出したいために鏡のように相手を欲しているのかも、しれない。それはイコール、努力できず価値が認められない自分をなぐさめるために、不遇の相手を見つけてきて引き合うのと、構造は同じなのかも、しれない。

自分のレベルに釣り合う相手のゾーンを定めて、そのゾーンなら需要と供給がマッチするかな、という無意識の妥協や打算があるやもしれない。自分の価値を低く見積もればおのずと選ぶ相手をも低く見るし、また逆もそうである。

気が合うとか、話が合うから楽しいというのは友達のレベルであり、そのレベルで性的な付き合いもセットにして関係を楽しむ人も多々いるわけだけれど、継続的に引き合い、強く惹かれるというのは、気楽な思いを超えた何かがあるゆえ、だと思うわけで。

それは別に性欲だけではなくて、もっと違う何かしら強い情動のエネルギーが磁石のように作用するのだろうと、なんとなく思うのである。

その磁石のラベルには、愛に似た、しかし愛とは全く違う何かのエネルギーの性質が書かれているように思う。

かくいうおまえはどうなんだ、とブーメランの切先が我が身に降りかかると言葉を失う。

なぜなら、僕は自分が何を楽しいと思い、どんな物事やありようを好ましいと感じるのかについて、その全てを権力者たる親から否定され、言う通りにしろ、従わなければ人生を潰してやる、と脅されて育ってきたという原体験のまま生きてきているからだ。

なので恋愛の顛末は、他者に奉仕をし、喜んでもらうことで初めて自分は生存を担保してもらえるというわけで、悲愴で、義務で、つらく苦しくて、命懸けで、しかも生殺与奪権を相手に最初から差し出すという底なしにトンチンカンなものばかりだったのだ。

そのトンチンカンさをあえて形容すると、「愛されている実感がないと、とてもこんな世界で強く生きていけない、だから愛されるためになら何でもする」と端的に一言でいうとそんなところだ。幼少期の愛着関係がよろしくないとこうなるという典型である。

そんなクレイジーなスタイルでも、お互いに好きであるかのような錯覚は持てるし、それなりの醍醐味があったわけだけれど、当然長く続くはずはなく、それを必死に耐え忍び、関係にしがみついていただけで、お付き合いしていましたという時間が長かっただけに過ぎず、その実質は、不満足と苦しみしかなかったわけである。どうしてそんなことになるのか?だって、その関係を失うことは自分という存在の死を意味するという思い込みが絶対的な真実だと信じ込んでいたんだから。

文字で書くとこの上なく奇妙だけれど、実際それで無意識に長い人生を苦しみながらしのいで今も生きている人が多くいるだろうことは、言うまでもないことだ。

大学時代、ゼミコンパの二次会でメニューを渡され、何食べたい?と先輩に聞かれただけでビクッと驚いて狼狽し、自分の本心や好みを質問されることが生存の危機になる恐怖を無意識に感じていた様子を横にいた友達は見逃さず、ああ、君も苦労しているのだね、と同じ境遇のその友達は見抜き、後々になってその話をしてくれた。

主導権を奪い合い、ルールを相手に押し付けたり、コントロールしようとしたり、または、逆らったり、攻撃したり。当人同士で処理できないものを子どもに押し付け、子どもはその未消化を抱えたまま大人になり、またそれを子どもに押し付ける。くっついたり離れたり、憎しみ合ったり、距離感が近くなる人間関係で起きるあれこれは、枚挙に暇がない。

親子三代、脈々と受け継がれてきた機能不全家庭の呪縛を僕の代で止めてやる、と決意し、親や祖父母の自己形成史分析を手伝い、甥っ子姪っ子の子育て支援にも自分のエネルギーの大半を使い、介護だ何だと10年近く関わり続け、なんとか止めることはできたかなと思う。

おかげで僕は、それ以降だいたいはひとりで気楽にやり過ごす選択をして飄々と今日まで来ている。

あれをしろ、これをしろ、私の要望を叶えろと要求するばかりの相手を引き寄せるのは、自分がそれに応じてきめ細かくサーブして相手の要求に応じることによって初めて、自分が生きていることを認められ、許されるという生存許可証がもらえるという世界観を握っているからであり、恋愛が重く苦しく、命懸けになるのは必然のありようである。

自分を犠牲にして他者に奉仕し、他者に益する存在でなければ人間としてダメなのだというその価値観、信念から世界を定義して世界を見るゆえに。

そしてまた、こんなに自分は我慢して犠牲になっているのだから、その対価をよこせ、と相手からの愛を要求する醜い自分に直面し、そうやってお互いに愛に飢えた相手を引き寄せ、愛を奪い合う修羅場を経験する。

そんなありようをしていることに気がつくのも、そういう現実を創造して引き寄せる経験をして痛い目に遭うからこそであり、骨身に染みて気がつき、そんな現実を作り出している自分の信念を手放すことで、変わることができるのである。

結ばれた関係が末永く続かず、それが3日で終わろうが、半年で終わろうが、それに善悪はない。

避けようのない出会い、結びつきの相手と抜き差しならない関係になったならば、その時にお互いが持つ課題があらわになるだけだ。学びの絶好の機会、とも言える。

相手からは逃げられても、自分の課題と向き合うことからは逃げられない。

経験をしていけば自分は変化をしていくし、求めるものも変わっていく。自分の肉体も容姿も、変わっていく。

そう、プロセス。

で、そのプロセスの先に何を見い出したいのか、というところ。

深入りしたプライベートを開示することのない仕事先の人たちから、いつも明るくて朗らかで、温和で優しい人ですね、などと言われるけれども、その実、めくれば色々あるわけですよ。

つまるところ、まずは自分を許せるのか、自分を愛せるのか、というところ、なんだよね、などと、

気分よく穏やかに毎日を送れるようになり、やっとこさ、字面ではなく体験として、それを実践する入り口に立てたような気がしている。

自分にとって他者、世界はどういうものでありどういう意味を持つのか、の前に、そもそも、自分というものをどう定義するのか?つまり、自分は自分をなんだと思っているのか?に立ち返る。愛というものの向け先はまず自分、なのである。

愛について知り、学ぶことがある種生きる目的であるとするならば、僕の流転の人生にも意味はあったのだと思うけれども、人生の残り時間は折返しを過ぎて着々と少なくなってきているわけで、

では今度それを実践して生きるというターム、有意義に突っ走らねばなと思う、早春なのであった。

まだ寒い気候が続くなか花粉はすでに飛んでいて、くしゃみ鼻水おかまいなし、こんな寒い夜に動画撮りにひっかけてウォーキングに行くべきかどうか悩んでいる金曜の夜であった。

そして幸せに、ひたすら生き抜く。とにかく今、この瞬間を気分よく、楽しく、生きていきましょう、ご同輩。

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