ゲイの視線、バイの視点。

宇宙と世界は人の数だけある。僕が何者であるかは僕が決める。僕は望むビジョンを表現する…というゲイ(バイ)のブログ。

#0050 一旦打ち止め

ゲイというかバイという切り口で、ノンアダルトの縛りで書きたいことはすべて書いてしまった感があり、また、本当に言葉を使って表現していくことにおいてテーマ、トピックにしたいこと書きたいのは別のジャンルだな、と思うに至ったので

一旦おやすみいたします。

ここの枠を使って入れ替えて出すか新しい枠使って出すかはもう少し考えることにします。

取り急ぎのお知らせでありました。

#0049 たらればの世界

ドラえもんといえばタイムマシンであり、どこでもドアである。実際過去と未来に自由に行き来できれば、一体何が「変えられる」というのだろうか。できもしないわけだから、ファンタジーとして楽しいお話になる次第なんだけども、さて。

ハリー・ポッターにもタイムターナーという小道具を使ってストーリーが展開する物語がある。三作目のアズカバンの囚人で、無実のシリウス・ブラックと魔法生物のバックビークを救い出すという展開になっている。最近では戯曲になったハリー・ポッターの呪いの子で、タイムターナー、時間を逆転させる逆転時計を使うことが物語が成立する鍵の要素になっている。

ナイアンテックスマホ向けゲーム、ハリー・ポッター魔法同盟では時空が歪んで、1990年代のハリーたちやら、1920年代のニュート・スキャマンダーやら、人物や動物、魔法の道具が2019年に世界中にばらまかれたという設定になっている。

現実世界では過去と他人は変えられないという。正確に言えば、テーブルの上のミルクの入ったマグカップを落として割ってしまい、床に牛乳が飛び散った状態から、それを割れる前に戻すことは不可能だということであるし、他人に自分の望む通りの行動をさせるよう仕向け続けることは不可能だという、それだけの意味である。

それほどに、人間は過去を悔やみ、他人を思い通りに操りだがる癖を持っている裏返しだろう。

僕は大学時代の恩師に、口酸っぱく、「過去は変えられる」と言われてきた。

もちろんそれは、例えば「17年前の9月7日に東京ディズニーランドに行った」という事実を、「行っていない」ことにできるという意味ではない。

起きた出来事の意味を、新しい物語として、違う意味を付与して解釈することができる、それはつまり過去に起きたことの意味を変えることができるということである。

ではそれを未来に置き換えても可能なのだろうか。人間の自由意志と選択、というのがどのくらい未来を可変できるものなのだろうか。

あの時ああしていればよかったと悔やむとき、じゃあ、重大な選択を迫られた過去の瞬間に戻り、別の選択をしていたら、幸せでよい未来になっていたのだろうか。

僕とてああしておけばよかったと思うことは多々ある。あの時女性と付き合わずに男性としか付き合えないと突っぱねていれば良かったというのか?あのとき住む場所を変えなければよかったというのか?言い出せばきりがない。

とはいえそれらは皆、実際に選択した結果としての経験や感想から、後知恵でそう思うということだ。後知恵で変えられるのは、やはり過去ではなくて未来の方でしかない。

もっというと、コントロールできるのは現在でしかない。

どうなりたいと思うのか?未来を可変できると、そもそも信じているのか?

自分にその力がなく、きまぐれな他人と状況に振り回されるしかないと世界を規定するならば、そりゃあ、めいっぱい自分の権力で他人に圧力をかけ、過去を悔やみ、未来に希望なんぞ見いだせるわけもないし、すべてはより悪い方に行くのが当然の帰結であるからして。

空腹続きの後に食べるご飯のうまさは言葉で表せぬ幸せである。

そのような設定をしていたとしたら、僕の過去もそうそう悪いものではないな。

ズボンの泥をパッパッと払いのけ、立ち上がって、さて、視線の先にある未来に僕は何を見るのか?

そろそろテキストブログの方向性変えるタイミングだなあと思うこの頃であります。


Harry Potter And The Cursed Child Exclusive Montage | Helpmann Awards 2019

#0048 美しさは罪…

アートと名が付けば不敬なものでも良いのか、否か、表現の自由がどうだこうだとかまびすしいニュースが先日報道されていた。

芸術とは何か、なんて、僕は語れる知識を持ち合わせていないけれども、理屈なんぞ関係なく、ああ、いいねぇ、素敵だねぇと感じるものに心動かされる感覚は鋭敏に認識している。

僕が美しいと感じるというのは、そういう意味である。

僕とほぼ歳が同じベテランの女優さんが、自身の愛車の遍歴を語る番組で以前、とあるクルマに言及していた。

マネージャーとともに食事をし、帰りに駐車場から店の前までマネージャーがクルマをまわしているとき、男性から声をかけられ、このクルマの持ち主はあなたかと聞かれ、知り合いの女性だとマネージャーが答えると、その女性に是非会ってみたい、と言われたと。そんなことが何度もあったというのだ。

僕もこのクルマを見かけることがあれば、乗っている人はどんな人だろうと知りたくなる。僕もこのクルマに目を奪われ、お財布がとてもついていかず、クルマなんぞ買える状況ではなかったゆえ指をくわえて見ているしかなかった。

僕がこのクルマに出くわしたのは一度だけ。営業の仕事で外回りをしていて、偶然ディーラーの前に駐車されていたのを見つけたのである。時間がなかったので慌ててデジカメを取り出し、大急ぎで撮った。エーゲ・ブルーという明るめの青も、僕の好きな色味である。

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自動車メーカーが作ったシャーシに、オリジナルのデザインのボディを架装するカロッツェリアと呼ばれる工房が存在するのだが、僕が目を奪われたそのクルマは、ピニンファリーナというカロッツェリアによる製品で、ダビデ・アルカンジェリというカーデザイナーが手掛けたとのことである。フェラーリ360モデナや5代目BMW5シリーズも彼のデザイン。どちらもやはり美しいデザインだ。

で、そのクルマは20年以上前に発売された古い車だが、今でも中古市場で高い値段がついている。

ベースになっているのはメーカー内製のセダンとワゴンなのだけど、そのクルマはクーペで、デザインと架装をピニンファリーナが担当しているので、かなり趣きが違う。

クルマのかっこよさはどこにあるのか、美しいクルマとは何なのか。価値観は人それぞれであるし、特に日本では実用的な背の高いクルマが売れ筋になり、昔からあるセダンやクーペはメジャーではなくなりつつある。

それでも、言葉にできない高揚と興奮、快感すら覚えるような美しさからクルマを選ぶという基準がいつまでもあってほしいと思うのだ。

昆虫や様々な動物はどの種類も、機能美にあふれているし、植物が咲かせる花も葉も、だし、犬や猫にだって、美しさを見出すことができる。

万物に美を見いだせるのならば、それはすなわち、僕は神を見ているのだ、神の創造物を見ているのだとすら、思うのだ。

世界で最も美しいクーペと言われたそのクルマはプジョー406クーペ。デザインを手掛けたダビデ・アルカンジェリは、遺作となったBMW5シリーズのデザインが取締役会で承認されたその日に、若くして急性白血病で亡くなったとのことである。

彼のデザインした新しいクルマをもう見ることはできないけれど、僕がクルマを選ぶ基準に美しさを何より重要視する価値観はこれからも変わらないだろう。

それは色恋に置き換えても、あてはまるよなあと思いながらひとりニヤけるのである。

相対してやられ、背中にやられ。やけどをするとわかっていても身を賭してしまう。

美しさにたぶらかされても、自分を見失うと取り返しがつかなくなるので、ご用心。

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パタリロ!-ED