しばらくのご無沙汰でありました。
書くことが特にないというのは、つまりあんじょうよく幸せに過ごせているというわけなので、ありがたいことだ。
それでも、フラッシュバックはある。昔の辛かった記憶が不意に襲うというヤツだ。
よく聞くのは、自分が他者から虐げられたり傷つけられたり、被害を受けたりした記憶が…となるけれども、僕の場合は逆である。
あんなことをどうして僕はしてしまったのか?迷惑をかけてしまった、傷つけてしまった、愛のない、思いやりに欠けた行動を取ってしまった、何回も何回も、という過去の記憶が頻繁に襲い、自己嫌悪と申し訳なさ、いたたまれなさで胸が苦しくなることが…数日に一回はある。過去にしでかした自分の行動を責めてしまうという方向の矢印なのである。
でもそのことについて自分は問題だと感じていない節がある。
ひとりでいると、つい大きな独り言として声に出して謝っている姿は、たしかに滑稽なのかもしれない。
謝れるなら謝っているけれど、もう贖うことが叶わないならば、思い出すたびに心のなかで謝り、そんな誤てるありようをもうこれから二度とするまい、と戒める。それは僕にとって必要であり続けることであり、多分一生死ぬまで続くのだろうと思う。
より良く生きたい、より良いあり方の人間になりたいという僕の意志のなせることだと思うから。
でも以前はそうやって自分を責めすぎ、自分自身を弱らせる事が多かった。
だから、消えたいと思った。消滅ボタン、ないかなあ、などとよく妄想したものだ。
そのボタンを押せば、僕が世界から消滅するだけでなく、僕に関わったすべて人の記憶から、僕という存在が消え、最初から僕は存在していなかったことにできる、そんなボタン。
それを押せば、僕の罪も存在も、最初からなかったことにできる…そんな空想に逃げて夜な夜なうなだれることがあったけれど、今はもうない。
世界に存在していていい許しを誰かにもらう必要なんて、はなっからなかったのだ。
世界の全てから拒絶されたとしても、肯定されたとしても、そんなことには一切関係なく、僕はただ、存在する。それだけでいいのだと気づけたからだ。
他者に益する存在として何かしら役に立てなければ自分は価値がない、とか
何かしらの付加価値を生み出せる能力で他者より秀でていなければ価値がない、
とかいう恐ろしい刷り込みを取り払うことができず悶絶していたけれど、
気がつくと、そのくびきはなくなっていた。
世界に耳を澄ますと、相変わらず様々な感情のエネルギーの波が交錯し、それぞれのドラマのテーマ音楽が流れている。
まるで天国と地獄が同じ次元にごちゃまぜになったかのようだ。
天使のラッパと福音の鐘。聖典の数々の予言はおどろおどろしい世界の末路を指摘しているらしい。
ニュースはもれなく世界の激変と災禍への不安を今日も煽り続けている。
僕はそれらに一瞥をくれ、注意を別の方向に向ける。
それでも車両の接近を知らせるファニーなメロディが喧騒の中で鳴り続けている。
注意信号に意識を向けて対処を取り、戒めを常に心の隅に置いて警戒はしつつも、目覚めて起きたなら、アラームは止めればいいのだ。
おもちゃのピアノを奏で、平穏と安寧を喜ぶ愛の唄が聞こえ、
つい弱気になり、押しつぶされそうになり、せっかく届いた幸せへの招待状に返事を出し渋る友達の耳元で、僕は銅鑼をじゃーんと鳴らし檄を飛ばす。
生きてさえいれば、それでいいのだ。満点なのだ。
さあ、仕事をしよう。
本当の自分になり、本当の自分として、ただ存在し、現れ続けるというね。
したいことをして、行きたいところに行き、
今ある状況と手札を眺め、それを楽しむ。
外の世界で何が起きようと、起きまいと。思うがまま。