ゲイの視線、バイの視点。

宇宙と世界は人の数だけある。僕が何者であるかは僕が決める。僕は望むビジョンを表現する…というゲイ(バイ)のブログ。

#0030 安心感

とにかく僕はクルマが好きである。親戚や友達の自動車購入の相談に乗り、販売店にいっしょに行き、丁々発止で価格交渉する姿を見た友達から、本当に好きなんだねぇ、と呆れられるほどだ。

好きすぎてクルマの業界で働いていた経験もあるし、今はずいぶん知識も抜けてしまったけれども、街で行き交うクルマを見て新車価格がどれくらいか目星つけられるし、珍しい車種を見つけるとつい目で追ってしまう。

で、僕はクルマに何を求めるかというと、カーブの多い山坂道をブンブン振り回して走れる楽しさではなく、とにもかくにも、安心感である。

僕にとっていいクルマとは、乗っていて安心感があること、それに尽きるのだ。

高速道路を走っているとき、不意の雨で路面が濡れていたり、強風だったりの状況に遭遇した時、安定性の悪い車だと生きた心地がしない。

周りの状況に注意を向けて安全運転をするというのは緊張を強いられる。当然のことだ。ボンヤリしていてはいけない。

でもリラックスすることはできる。だから楽しいわけだ。曲がってほしいと思う意図通りに曲がり、望む速度を遅れなく出すことができ、止まりたいと思う通りの塩梅でスムーズに止まれる。つまり、意のままにクルマを操れる快感。これが僕には一番重要なのだ。

なので、反応が過敏すぎず、ほっといても必ずまっすぐに戻ろうとする直進安定性、天候や路面の状況を問わず安定感もって走れるのが何より、僕にとっては重要。クルマの購入を検討するときには、衝突安全性や予防安全性含め、こういったことをポイントにする。

もちろんデザイン、要はカッコよさも外せないけれど、あまりにも視界が悪くなったり、死角が多くなったりするのはNGだ。

イカーだったり、仕事通じていろんなクルマを運転してきたけれど、大雨や突風などで制御がきかなくなり、ツルッと滑って思わぬ方向に行ってしまいそうになって肝を冷やすことが多々あった。速度を落として注意して、は当たり前だけれども、それでも、安定していないことの恐ろしさはとてつもない緊張と疲労感を生み、楽しいはずの運転が楽しくなくなってしまう。

首都高の鶴見つばさ橋を某メーカーの後輪駆動の高級車で走っていたら、南から吹く強い海風に煽られ、濡れた路面でクルマが水の上に浮いたようになった。人様の車だし絶対にぶつけたらいけないという緊張もあいまって冷や汗ぐっしょりになった。またある時は、軽自動車ベースの背の高いSUVで走っていて、カーブ手前でブレーキをかけたら舗装がデコボコで姿勢が乱れて後ろのタイヤが滑り、あわや横転、みたいなこともあった。最近復活したスポーツカーの前のモデルに乗った時は、くしゃみひとつで手が震えただけで、クルマがあられもない方向に行ってしまうのではないかと思うほど過敏な操舵の味付けにびっくりしたこともある。軽自動車で高速道路のトンネルを抜けたら、車線一つ分横風で持っていかれたこともあった。

ところが乗用車タイプの4輪駆動車は、もちろん万能ではないけれども、どっしりとした安定感で、とてもリラックスできたのが感動的だった。自動で動くワイパーの動きが目で追えないほどの激しいゲリラ豪雨の中、スピードを落としながらも、ちゃんと地に足がつき、4つの足で踏ん張って走っている感覚があり、その分の注意を周りの状況に向けられる余裕があった。そんなことに何度も何度も遭遇している。

なので、山道や悪路も走らないし、雪国でないにもかかわらず、三菱やスバルの4輪駆動式の乗用車に長く乗ってきた。また、予算が許さなかったけれども、流行りではなく確固たる思想として、安全性や操縦安定性を長年追求してきたボルボメルセデスにシンパシーを感じてきたのである。

クルマ相手に求める安心感は、僕にとっての世界との関わりにおいて安心感を強く求めて生きてきたことと連動しているのだと思う。

人間が穏やかでリラックスしているときにこそ、最高のパフォーマンスが継続して発揮できると僕は思うし、不安や恐怖からのパフォーマンスは、生命の危機を感じるゆえの火事場の馬鹿力であって、それはほんの短期間にしか出せない。だから、不安や恐怖は戦うかそこから逃げるためにやることで、

一生そのモードでいるのは不可能だし、それをやり続けると早々に身体と心が潰れてしまうものだ。一度壊れると、リカバリーにさらに時間がかかってしまう。僕は身をもって嫌という程それを体験として味わってきた。

マズロー欲求段階説は僕だって学校で習って知っている。

とはいえ、まず心の中に土台としての安心感、安定感があるか否かが人生の質を大きく左右すると思うし、何より、その安心感を求めることが生きる理由ではないかとすら思うほどである。

さて、生きる上での安心感はどうやって手に入れたらいいのだろうか。

経済的なことを求めたり、社会や周りの他人に安心感をよこせと非難したり媚びたりして要求するのも、ある側面では意味はあるけれども

究極的には自分の安心感は自分で作り上げるしかないと、僕は思う。

言い換えると、南無阿弥陀仏と日々唱えれば往生が決定し、後は感謝して生きるで良いのだ、ということとも通じるのかもしれない。神、または仏という存在を規定し、という意味で、宗教的な話になるということなのだろう。

両親の命日には墓所でお坊さんに読経をお願いしてお参りするけれども、既に往生されて仏になられているのだから、命日供養というのは、生きて残っている人間が命について考え、感謝し、阿弥陀如来様の御心に触れるためにするものだというのが僕の家系の宗教である。なので、毎回命日には両親それぞれセットになるという次第。

宗教的な話にせずとも、とするならば、安心感というものは、僕にとって、こう、換言できる。

自分はOKである。生きていて良い。存在するだけで価値がある。そのことにまず、気づくことであり、実感することだ。要は自己肯定感であり、自分がとにかく存在している、存在するだけで価値があるのだということを理解し、実感することだと。

自己効力感、能力に対する自己評価を高く持ち、社会に機能を提供してより良く生きていくべく現状を切り開いていく、というのはその次の段階だ。

あんたなんか産まなければよかったと何度も言われて育ったし、自分には生きる価値がない、自分は存在しても仕方がない、という物語に振り回され、他者に愛してもらいたい、承認してもらいたい、肯定してもらいたいという欲望に突き動かされさまよってきて、それでも報われることなく失意の中で力尽き…というその物語から抜け出るのに40年以上かかったけれども

人を尊重し、愛と思いやりを持って生きることの前に、まずそれを自分で自分に向けて、自分を満たす。とにかく、周りがどんなに自分を責め、否定したとしても、自分自身は絶対に自分を責めない、否定しない、ということからスタートするしかないのよね、としみじみ思う。

そして僕は、次の愛車候補のひとつとしてメルセデス・ベンツ、欲しいなあ、もちろん4輪駆動の4MATICで!と思っている自分を許容するわけである。ウヒヒ。


メルセデス独自の四輪駆動「4MATIC」とは

 

#0029 苦くないゴーヤチャンプルー

先日姪っ子が沖縄へ修学旅行に行ったお土産にソーキそばをくれた。

僕も二度、沖縄に旅行している。一度目は同じく修学旅行、二度目は、自ら手配して、大学のときに友達といっしょに。

修学旅行ではありていなコース取りだったので、自分で計画を立てたときにはマニアックなルートにした。手紙のやり取りをしていた沖縄の友達に色々聞き、よりリアルな沖縄を体験できるように、としたのだ。楽しい行程だけでなく厳しい、行程もである。

ひめゆりの塔の近くに、まだ中に入れる洞窟というか、野戦病院となっていた壕があり、米軍が投降を呼びかける中、出ようとする人間は殺され、いよいよとなって自決を強いられたり、最終的には火炎放射器での掃討攻撃を受けた、という壮絶な場所である。サトウキビなのかどうかはわからないけれど、本州にはない作物の畑が一面に広がる、牧歌的な風景の中に濠はあった。隠れながら生活していた跡がまだ残されていて、長時間そこにいるのはとても無理だった。

塔の近くで売店を見つけ、お土産を買いに立ち寄ると、レジのおばあさんが片手で不自然に品を袋に詰めているのが気になり、失礼とは思うも、そのことについて問いかけてみた。

その方は、沖縄戦の時、片手を失う怪我を負ったために逃げられず、米軍に保護されて、死なずに済んだという。友達は皆、死んでしまったと。しばらく絶句してしまい、言葉が出なかった。

米軍の払い下げショップに行きたい、と友達のリクエストで沖縄市に行った帰りに嘉手納基地の近くに行くと、フェンスには軍用犬が監視している旨の警告の看板が下げられていた。つまりは、フェンスの向こうは日本ではなくアメリカなのだ。

当時はまだモノレールがなく、空港からレンタカー屋さんまでタクシーを使ったのだが、その時運転手さんから、運転するなら、Yナンバーのクルマには注意しなさいと忠告された。ぶつかられたとしても、基地の中に逃げられたらどうしようもないからね、と。

その後厚木基地の航路の下に住むことになったときには戦闘機の爆音に狼狽し、日本軍が持っていた、原野にある飛行場が米軍基地として接収され、その後都市化で市街地になっていったという経緯を改めて肌で感じ、今も米軍が横田基地をベースに首都圏の制空権を持っていることを含め、日米の圧倒的な力の差を、表と裏、光と影として、感じてきた次第である。

政治的な立場は人それぞれあり、思いもあるのは承知しているし、僕とて思うことはあるけれども、それについて書くことはしないが…言えることがあるとするならば、どちらにも理はあり、また、到底甘受し難いと感じる違和感が、どちらの陣営の主張にも、ある。なかなか難しい問題である。

さて、旅行の最後の日は那覇市に宿を取り、ブラブラと市街を歩いた。先日建て替えのために閉鎖されたという市場にも行き、色々と土産を買った。

さらにブラブラ歩いて、古びた大衆食堂のような店を見つけた。観光客向けではない、地元の味が楽しめるのではないかという直感があったので、晩ご飯はここにしよう、とその店に入った。

おじいちゃんとおばあちゃんの二人で切り盛りしている店だった。ゴーヤチャンプルーも食べてみたかったし、あれこれそそられるメニューを注文。するとおばあちゃんはおじいちゃんにオーダーを通すのだが、その会話がもはや外国語のようだった。方言というようなものではなく、独立した言語のようだった。聞いていても全然わからない。

そしてできた料理を持ってきたおばあちゃんは、普通に話してくれるのだけど。そこで食べたゴーヤチャンプルーの旨さに、本当に驚いた。こんなに美味しい食べ物があるのかと。

ためしに自分で作ったら、苦味を取る作業など知る由もなかったので、半端ない苦さでとても食べられなかった。今は苦くないようにするコツ覚えたので時折作って食べるようにしている。

塩もみして少し置いて、さっと湯に通して、油で炒めて、お好みで最後にかつお節乗せて混ぜる、であります。

お土産のソーキそばを美味しくいただきながら、さあ、次いつ行くかな…と思いつつ。

またひとりでピーチの弾丸になりそうな気がする…がまあそれも良しだな!

#0028 食事の意味

旅の醍醐味、特に海外に行くことの利点は、異文化の中に身を置くことで自分の思い込みに気付かされること、が一番な気がする。

僕が唯一海外旅行をしたのが、返還直前の香港とマカオだった。

当時付き合っていた彼氏くんが旅行好きで、全部手配をしてくれた。

今はデルタ航空と合併して存在しないノースウエスト航空B747、成田からの往路はオーバーブッキングで、マイル使った彼氏くんではなく正規運賃だった僕だけビジネスクラスに振り替えてもらうことになり、ラッキーなんだかどうなんだかわからぬまま、生まれて初めての海外旅行でビジネスクラスに乗るというスタートだった。

香港に帰るために乗っているというビジネスマンが隣にいて、英語で気さくに話しかけられたはいいが、簡単な受け答えはできるものの、複雑なやりとりはできないので会話は弾まず、さらにはミールやドリンクのオーダーを丁寧に聞きに来るアテンダントさんの英語が聞き取れず、僕はお酒飲めないし、何やらあれこれ持ってきてくれるのだけど意思疎通がうまく行かず冷や汗たらたらだった。

途中雷雲の稲妻が窓の外に見えていたものの特に揺れることなく、眼下に台湾の夜景を見ながら、ぼんやりしている間に、今はもうなくなった啓徳空港に着陸。香港の旅が始まった。

ホテルの内線でサービスのところに電話して、モーニングコールはなんとか頼めたけれど、自身の英語力のなさで不安と緊張が続き、ズボンのお尻のポケットに財布を入れているとスリに遭うよと言われ、カバンを肩掛けで持ち、その中に入れて持ち歩くようになったクセは、今も変わらず続いている。

夜景を見たり、なんやかんやとそれなりに楽しく過ごした。ジェットフォイルに乗り、船内で入国審査を受けるという面白い体験を経て、マカオにも行った。

ホテル・リスボアにあるカジノへ行くと、入り口には銃を肩にかけた警察?の人がいて、とてもものものしい。僕はギャンブルをやらないので、ギャンブル好きな彼氏くんが興じている間、中のショッピングセンターでブラブラしていたら、「3万円、3万円、シャッチョウさん、イカナイ、イカナイ」と客引きをしている娼婦のお姉さんに腕を掴まれ、びっくりして逃げ惑った。

当時禁煙していて食う方に走り、お腹が出ていたし、裕福な小金持ちに見えたのかなと。でもその時たしか25.6歳で、そんなふうに判断されたのかととにかくショックで…それがマカオでの忘れ得ぬ思い出のひとつだ。

外に出ると、曇天の夕暮れで、西洋の雰囲気がする建物と石畳の街並みの中に東洋の味も混ざっていて、いい風情だなと感じていたが、夕方の散歩をする男性がみな上半身裸で歩いてるのにびっくりした。

確かに、暑かった。香港でも、昼外に出たら、晴れているのになんともいえないムワッとした蒸し暑さで、日本とは違う不快な暑さだった。

帰国前の夜、どこでご飯を食べようかとなり、庶民的な中華料理店のようなところに入った。茶餐廳(チャーチャンテーン) という香港式のカフェレストラン的なものだとのことだった。英語なんか一切書いてないメニューをよく理解できなかったので、書かれた漢字から日本語のイメージで適当に頼んだら、こんなに食べられないよ、というほどのボリュームでドカドカとこってりした料理が並べられた。おいしいのもあったし、日本のとは違うオイスターソースの香りや甘い味付けにたじろいだ料理もあった。残してはいけないと思い頑張って食べてお腹はちきれんほどになりながらホテルに戻ると、身体から出る汗まで甘ったるい匂いになるような感じだった。いい思い出だけどね。

僕が何より驚いたのは、たくさんのお客さんがいて混雑している中、皆ひたすら大声で喋りまくっていたことだ。賑やかいのなんの。凄いエネルギーだった。食べながら、また食べ終わっても構わずとにかく喋る、喋る。

僕が育った家での食事はいつもお通夜みたいで、何か話そうとしたら怒鳴られるし、誰が皿を洗う洗わないで悶着が始まるから食べ終わったら逃げるように自分の皿を洗い、部屋へ戻る。洗い方が気に食わないとあとでまた怒鳴られてしまうこともあるし、嫌味ったらしく自分のだけ洗いやがってと言われることもあるし、とにかくその時の空気を必死に読んで、とばっちりをくらわないような選択をする毎日だった。なので、食事が楽しいと感じたことなんか一度もなかった。

何を食べたいか聞かれてそのとおり答えたら、厚かましいだの、私に今から買い物に行けというのか、みたいに返されて、じゃあ聞くなよ!と思うのだけど、子どもには何をどうやっても勝ち目のない無理ゲーであった。

外食となればなったで、何を食べるかで毎度喧嘩が起き、こんなことになるならもうご飯なんかいらない、なんで腹が減るのか。食欲がある自分すら忌々しい、と思うこともしばしばだった。何が発火点になりいつ母親の機嫌が悪くなるかわからないし、悪くなったら皿が飛んでコップが割れ、食事どころではなくなる…

そんな家に育ったもんで、香港のそのお店での体験は僕にとってとても衝撃的だった。日本の居酒屋のガヤガヤさともまた違って、店にいる人間全員がひたすら大声で喋っている感じがして、とにかく凄いエネルギーだなあと、本当に感心した。文化の違いというのもあるだろうけれど、経済都市のパワーなんだろうな…。

復路は窮屈なエコノミーシートに揺られ、ああ、ビジネスクラスって快適なんだねぇ、と知ってしまった切なさを覚えつつ、成田から伊丹まで国内線の飛行機に乗り換え、また変わらぬ日常に戻った。

好きなように喋って笑ってご飯って食べていいんだな、と気づいたのがそんな体験がきっかけである。そんな気づき方も、そんな思い込みの制約があったことも、驚かれてしまうわけですが。そうなんだから仕方がない。

一人暮らし長くなってきて、だいたいひとりメシなもんで、また黙々と早食いしてしまう良くない毎日ではあります。

ひとりではなく、誰かと食べることを味わい、その時間を楽しむ、ということの大切さと、ひとりで黙々早食いすることのよろしくなさとの対比を感じ、今日もカロリーコントロールに励んでおる次第であります。

政治的なダイナミズムが絡んで、色々大変なことだなあと思いつつ、香港がどうなっていくのだろうかととても気になる。

パスポート切れちゃったしまた取りに行かないといけないな。次はピーチで台湾に行くかなあ。ひとりで行くことになるかな、たは。


ノースウエスト航空 CM 1993年 / Northwest Airlines Commercial in Japan 1994