ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0141 コスパとタイパ

仕事、プライベート問わず、効率化の価値観は目に見えぬ圧力として自分に押し寄せ、焦らせる。それが現代社会ってもの、なのだろうし、老いも若きもその概念に追い立てられて走らされているようにも見える。

お金にも資源にも限りがあるのだから、有効に活用しなければならない、というのはもっともな理屈なのだけれど。

あらゆるタスクを緻密に組み、二度手間が発生しないよう、すべて一筆書きのルートに段組みし、華麗なムーブで一発で終わらせるようにと心がけ、同じ単位時間でより多くのタスクをこなさねばならぬ、と必死に生きてきて、そしてふと立ち止まり、はて、いったい何のためにそんなことをしているのか?という疑念がいつも頭をもだける。

仕事や日常のルーティーンを効率化するのは、それが「嫌で嫌でたまらないから」である。嫌だけどやらなくちゃならないので、ならば、最低限の労力で必要なアウトプットを出して、したいことに自分のリソース、つまりは時間と体力を温存したいのだ。

ところが効率的にタスクをこなしてできた時間で、消耗した体力を回復することにしか使えない、つまりは疲れてぼーっとしてしまうことが多々、な今日このごろなのだ。

この本末転倒っぷりに自分でも呆れてしまうのだけど。

結局、人生という長いスパンで考えた時、お金や時間、体力といったリソースをより効率的に投下して、いったい何を担保したい、つまり手に入れて死守したいのよ、ってことに帰結する。

それはほら、人間幸せになりたいってことなんじゃないの?とまず安直に定義したとき、金銭的な豊かさが欲しいとか、社会的地位が欲しいとか、なるだけ楽したい、それを手に入れるためにシャカリキになるんだろうよと。

今この瞬間の幸せを犠牲にしてでも、ね。

幸せになりたいとして、僕が効率化の呪縛で疲労困憊しているとき、ちっとも幸せではないわけで、ということは今この瞬間、幸せであることを放棄してまで効率を追い求めるというのは、実に頓珍漢なんだよな、と一応結論には達する。

無駄の中に意味があって醍醐味があると自分に言い聞かせなければならないほど、失敗を恐れ、生産性を高くしなければという縛りに囚われてしまうのはとても悲しいことである。しかし無意識だから、気がつくとついそうなってしまいがちである。

夢やゴール設定、目標やコミットがあるとしても、今、ここで幸せでいられるかどうか、だし、何なら、未来への夢があってもなくても、今この瞬間が幸せであればそれでいいし、生きてるだけで、それで十分なのだ。概念としてはわかっていても、つい効率に追い立てられ、なかなか腑に落ちない自分に、今日も僕は口酸っぱく言い聞かせる。

今日一日生き抜くことがミッションであり、それだけで十分だと意気込んでいても、先日買ったダウンのコートがセールになって今なら3000円値引きですよ、とご親切にメルマガが来て、なんだよ、もっと早く言ってくれよもぉ、損したじゃんか~と数日凹んでいる、相も変わらぬ小市民の僕なのである。

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新しいiPhoneであちこち散歩しながら色々撮り始めたのでこちらのチャンネルも再構築いたしました。

#0140 Winter has come. Let's fall in Love!

もう立冬を過ぎているんだし寒くなって当たり前ではあるんだけども。

朝起きようとするとあまりの寒さにたじろぐ。仕事行こうと外へ出たら手がかじかむ。そうかと思えば昼は暑い。猛暑は毎年のこととはいえ、おかげで今年も秋をゆっくり味わうこともできず、秋物の洋服をまた着るもことなく、いきなり冬になっちまった。

冬のコートを出さなくちゃ、とクローゼットを見るも毎冬着ているカジュアルのダウンのコートがない。夜に押し入れをひっかき回して探すも見つからず。

ああ、そういえば。引っ越しのとき、10年くらい着ててチャックがイカれたし、さすがに古くなったから、寒くなったとき新しいのを買えばいいやと捨てたのを思い出した。

しばらく使わないものを部屋のどこにしまったのか、それとも捨てたのかっていうたぐいのことは本当に忘れてしまうものだね、と痛感。

一応丈の短いジャンパーやパーカはあるけど、真冬には暖かさが足りないし、奮発して買ったちょっとおしゃれな綿のコートはあるけど、重すぎて着るのが億劫…。

手袋は今年の春どこかでなくしてしまってないし、ニット帽もどこかに落としてしまってない。急に来た冬に慌ててオロオロする始末である。

仕事帰りにユニクロへ駆け込み、とりあえずヒートテックのニット帽とダウンコートを買い、帰宅すると汗だく。寒暖差で服の調節が難しい。

ユニクロが僕の住んでいた街にできたのは確か大学生の時だったと記憶している。僕がいつも行くユニクロは、大きい店舗で在庫が多いので気に入る色やサイズがだいたいあるから重宝しているのだけど、店には子どもから中高生や大学生、若いカップル、親子連れ、サラリーマンにOL、おじいちゃんおばあちゃんに観光客と、老若男女問わず様々な年齢層のお客さんで混雑していた。皆iPadの画面のセルフレジにもたじろぐことなく、当たり前に操作していて、30年の時の経過を感じる。

暑いのも嫌だし寒いのも嫌だけど、このふたつの厳しい季節は、激しく何かを求める季節でもまたあると、思うのさ。

多感な若い時期に聴いた歌は、その時の自分の激しい情熱や痛み、いつまでも消えない心象風景が重なり、思い出して聴くとその時のリアルな記憶が鮮明に蘇るものだ。今の若い人たちがどういう歌手のどんな歌を青春の記憶として聴いているのかはわからないけれど、僕の場合、もちろんその当時たくさんの曲を聞いてはいた。でも青春の激しい情熱と痛みと、甘くほろ苦い記憶と紐づいてるのはこの人の曲だねぇ。ゲイだから余計にというのも、バイアスとしてはあるが。油断するとその時の記憶がリアルすぎて目から汗が出ることが今もあるくらいだ。

今の時代は昔の曲も今の曲も等価値として並列に聴けるという素晴らしい時代なわけだけど、今の若い人がこういう曲を聴くと僕が若かったときと同じ感覚をもつものなのかな。いや、やはりその時代にその年齢で共有できるものはそのときだけなのかもしれないね。

記憶は蘇っても、時は進んでいるし、味わい方も楽しみ方も若い時とは違うものだし、それでも若い時に取り逃がしたものを変わらず求めてしまう未練や執着を、捨てきれずに持て余してしまうのだよな、とも思う。取り逃がしたのなら、今からまたつかみに行けばいいだけのことで。欲しいと思うものの内容は、相応に成熟しているはずだから。

成熟した結果として、希求する何かしらを静かに自分の内側に求めて生きていくのも、また悦、なわけだし。

それはつまり、自分に恋をして内側に入り、そこから外の世界全てに恋をする、というヤツだな。

若さゆえの未熟さや身勝手さ、無知さも重なった、外の世界に愛を求める強烈なエネルギーは、それがどんな失敗と喪失に終わってしまったとしても、かけがえのない貴重なものなんだよなと、年齢を重ねてしみじみ思う。

ともあれ、めいっぱい味わい、楽しんで、やってくる季節を満喫しましょう。

喜びも、悲しみも、寒さも、暖かさも。

帰路を急ぎながら、そんな事を考えた。

 

今もミュージックプレイヤーの再生リストで聴いているナンバーはこのあたり。

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#0139 流行ってないのに今さら。

先月とうとうコロちゃんを初めて食らってしまい、2週間ほど仕事を休んで自宅隔離、医者行く以外何もできずでありました。

ここ数年何度か風邪は引いていたけど、発熱外来行って検査しても陰性ばかりで、なんてことはなく過ごしていたけれど、とうとうですよ。初めて食らったもんでこじらせてまあまあ大変でありました。症状的にはインフルというか、しつこい風邪って感じなので、どうということはなかったけども。結局こじらせてしまった感じなので、仕事に行きつつも後遺症外来的なとこに通わなくちゃならない羽目になり、結局発症からほぼ1ヶ月潰した計算。

食らっちまったもんはしょうがないのだけど、そもそもなんで食らったのかなと考えると…シンプルにストレスで精神的にかなりやられていたのが原因だと即答えが自分の中で出る。

ああ、対処間違うとこうなるんだよなと。

ストレスというのは、もちろん外の世界の因子がストレッサーとしてあって、なわけだけれども、自分の認識としてそれを不適切に捉えてしまうがゆえに、ストレスとして感じてしまうわけで、今回も、自分の認識構造の歪みで過大にストレスを感じてやられていたのだよなと総括はできた。

認知の歪みから来ているとはいえ、ストレスで体調崩していたのを無理を押しだましだましやってきていて、その結果コロちゃんの侵入を許してしまうほど免疫を弱らせてしまったわけだし、ああ、不満足な状況にいることの責任を自分に帰結させ、こうあるべきだ、というありようにフィックスできない自分を責めてしまういつもの癖が原因であり、それをええ加減やめなはれ、という示唆なんだなと。

だいたい風邪だのインフルちゃんだの食らってダウンするときはこのパターンなんだよね。

しかし転んでもただでは起きぬ。

同じようにしばらく続いていたそのストレスが原因で腰痛に1ヶ月ほど悩まされていたのだけど、熱に冒され寝込んでいる間にケロッと治ってしまった。

外の世界の状況は何ら変わっていないので、問題はそのまま存在しているのだけれども、僕がそれをどう捉えるのかという認識をシフトさせるしかない。今できるアクションはそれしかないなというところなので、自分に課す要求水準を下げ、とにかく心穏やかに過ごして体力の回復を少しずつやっているというところである。

一応心理学を学んできた身としてもっと学問的にあれこれ語りたいのであるけれど、しゃらくせぇ、わかりやすく考えないと自分の頭で論理の交通整理ができない。

ストレスとはつまり、僕にとっては生きづらさである。

外の状況が不満足で、不愉快で、しかし、その外側の世界をぶち破ることができない、という身動きが取れない状況の中で、さて、どうしたら良いのか、というわけだ。

となると自分の側を変えるしかない。

自分の選択、行動であり、その背景にある動機となる自分の価値観であり、認識を変えるしかないのだ。

外側の世界を変えるには、内側の世界を変えるしかないのだ。

文字にすればこの上なく簡単だけれど、その内容の難解さは果てしない。

その果てしなさに取り組んで謎を解いていくことが生きるということの真の意味なのか、とうなだれるのが正直なところである。

その壮大な内容を明快に言語化できるほどまだ僕の頭は回復していない。

できることはといえば、欲しい物でも買って楽しい気分になることくらいしか浮かばず、7年も使い続けた古いiPhoneを最新型のiPhoneに買い替えたった。

良くなったカメラ性能がどんなもんかしらとお散歩ついでに写真や動画を撮りまくりに行こうかなあと思いつつも、まだあんまり無理もできないので様子見しているという次第でありました。

外の世界がどうであれ、今、この瞬間を楽しく機嫌よく生きる、というのを常に忘れないようにと戒めるのでありました。

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