仕事、プライベート問わず、効率化の価値観は目に見えぬ圧力として自分に押し寄せ、焦らせる。それが現代社会ってもの、なのだろうし、老いも若きもその概念に追い立てられて走らされているようにも見える。
お金にも資源にも限りがあるのだから、有効に活用しなければならない、というのはもっともな理屈なのだけれど。
あらゆるタスクを緻密に組み、二度手間が発生しないよう、すべて一筆書きのルートに段組みし、華麗なムーブで一発で終わらせるようにと心がけ、同じ単位時間でより多くのタスクをこなさねばならぬ、と必死に生きてきて、そしてふと立ち止まり、はて、いったい何のためにそんなことをしているのか?という疑念がいつも頭をもだける。
仕事や日常のルーティーンを効率化するのは、それが「嫌で嫌でたまらないから」である。嫌だけどやらなくちゃならないので、ならば、最低限の労力で必要なアウトプットを出して、したいことに自分のリソース、つまりは時間と体力を温存したいのだ。
ところが効率的にタスクをこなしてできた時間で、消耗した体力を回復することにしか使えない、つまりは疲れてぼーっとしてしまうことが多々、な今日このごろなのだ。
この本末転倒っぷりに自分でも呆れてしまうのだけど。
結局、人生という長いスパンで考えた時、お金や時間、体力といったリソースをより効率的に投下して、いったい何を担保したい、つまり手に入れて死守したいのよ、ってことに帰結する。
それはほら、人間幸せになりたいってことなんじゃないの?とまず安直に定義したとき、金銭的な豊かさが欲しいとか、社会的地位が欲しいとか、なるだけ楽したい、それを手に入れるためにシャカリキになるんだろうよと。
今この瞬間の幸せを犠牲にしてでも、ね。
幸せになりたいとして、僕が効率化の呪縛で疲労困憊しているとき、ちっとも幸せではないわけで、ということは今この瞬間、幸せであることを放棄してまで効率を追い求めるというのは、実に頓珍漢なんだよな、と一応結論には達する。
無駄の中に意味があって醍醐味があると自分に言い聞かせなければならないほど、失敗を恐れ、生産性を高くしなければという縛りに囚われてしまうのはとても悲しいことである。しかし無意識だから、気がつくとついそうなってしまいがちである。
夢やゴール設定、目標やコミットがあるとしても、今、ここで幸せでいられるかどうか、だし、何なら、未来への夢があってもなくても、今この瞬間が幸せであればそれでいいし、生きてるだけで、それで十分なのだ。概念としてはわかっていても、つい効率に追い立てられ、なかなか腑に落ちない自分に、今日も僕は口酸っぱく言い聞かせる。
今日一日生き抜くことがミッションであり、それだけで十分だと意気込んでいても、先日買ったダウンのコートがセールになって今なら3000円値引きですよ、とご親切にメルマガが来て、なんだよ、もっと早く言ってくれよもぉ、損したじゃんか~と数日凹んでいる、相も変わらぬ小市民の僕なのである。
新しいiPhoneであちこち散歩しながら色々撮り始めたのでこちらのチャンネルも再構築いたしました。