ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0154 思うがまま。

しばらくのご無沙汰でありました。

書くことが特にないというのは、つまりあんじょうよく幸せに過ごせているというわけなので、ありがたいことだ。

それでも、フラッシュバックはある。昔の辛かった記憶が不意に襲うというヤツだ。

よく聞くのは、自分が他者から虐げられたり傷つけられたり、被害を受けたりした記憶が…となるけれども、僕の場合は逆である。

あんなことをどうして僕はしてしまったのか?迷惑をかけてしまった、傷つけてしまった、愛のない、思いやりに欠けた行動を取ってしまった、何回も何回も、という過去の記憶が頻繁に襲い、自己嫌悪と申し訳なさ、いたたまれなさで胸が苦しくなることが…数日に一回はある。過去にしでかした自分の行動を責めてしまうという方向の矢印なのである。

でもそのことについて自分は問題だと感じていない節がある。

ひとりでいると、つい大きな独り言として声に出して謝っている姿は、たしかに滑稽なのかもしれない。

謝れるなら謝っているけれど、もう贖うことが叶わないならば、思い出すたびに心のなかで謝り、そんな誤てるありようをもうこれから二度とするまい、と戒める。それは僕にとって必要であり続けることであり、多分一生死ぬまで続くのだろうと思う。

より良く生きたい、より良いあり方の人間になりたいという僕の意志のなせることだと思うから。

でも以前はそうやって自分を責めすぎ、自分自身を弱らせる事が多かった。

だから、消えたいと思った。消滅ボタン、ないかなあ、などとよく妄想したものだ。

そのボタンを押せば、僕が世界から消滅するだけでなく、僕に関わったすべて人の記憶から、僕という存在が消え、最初から僕は存在していなかったことにできる、そんなボタン。

それを押せば、僕の罪も存在も、最初からなかったことにできる…そんな空想に逃げて夜な夜なうなだれることがあったけれど、今はもうない。

世界に存在していていい許しを誰かにもらう必要なんて、はなっからなかったのだ。

世界の全てから拒絶されたとしても、肯定されたとしても、そんなことには一切関係なく、僕はただ、存在する。それだけでいいのだと気づけたからだ。

他者に益する存在として何かしら役に立てなければ自分は価値がない、とか

何かしらの付加価値を生み出せる能力で他者より秀でていなければ価値がない、

とかいう恐ろしい刷り込みを取り払うことができず悶絶していたけれど、

気がつくと、そのくびきはなくなっていた。

世界に耳を澄ますと、相変わらず様々な感情のエネルギーの波が交錯し、それぞれのドラマのテーマ音楽が流れている。

まるで天国と地獄が同じ次元にごちゃまぜになったかのようだ。

天使のラッパと福音の鐘。聖典の数々の予言はおどろおどろしい世界の末路を指摘しているらしい。

ニュースはもれなく世界の激変と災禍への不安を今日も煽り続けている。

僕はそれらに一瞥をくれ、注意を別の方向に向ける。

それでも車両の接近を知らせるファニーなメロディが喧騒の中で鳴り続けている。

注意信号に意識を向けて対処を取り、戒めを常に心の隅に置いて警戒はしつつも、目覚めて起きたなら、アラームは止めればいいのだ。

おもちゃのピアノを奏で、平穏と安寧を喜ぶ愛の唄が聞こえ、

つい弱気になり、押しつぶされそうになり、せっかく届いた幸せへの招待状に返事を出し渋る友達の耳元で、僕は銅鑼をじゃーんと鳴らし檄を飛ばす。

生きてさえいれば、それでいいのだ。満点なのだ。

さあ、仕事をしよう。

本当の自分になり、本当の自分として、ただ存在し、現れ続けるというね。

したいことをして、行きたいところに行き、

今ある状況と手札を眺め、それを楽しむ。

外の世界で何が起きようと、起きまいと。思うがまま。

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#0153 仕掛けるか?乗っかるか?

リード。ガイド。エスコート。

または、支配。または、提案。

提案を受けた側は、さて、何を思う。

喜んで従属するのか?それとも?

そして提案した側も、何を思うか。

男が、または年長者がリードすべき、的な考えは、権力差を利用した搾取、差別に繋がる危険を孕むが

そもそもその差異は突き合わせた今生における物理的な経験値の差の結果にすぎず、お互いの人間としての価値や尊厳に差は一切、ない。平等であり、対等だ。

どちらが誘ったにせよ、差し出された手を握り返したのなら、引き合った証拠だ。

引き合うのは、同調したからである。ただし、何に同調したのか?それが問題だ。

類は友を呼ぶ。

何かに不足と欠乏を感じた者同士の引き合いは、奪い合いを生み、
何かに充足と満足を覚えた者同士の引き合いは、安らぎを生む。

不足や欠乏感が悪いわけではない。それがいさかいと悲しみ、そしてすばやい別離を経験したとしてもそこには学びがある。

自分が何を感じて引き寄せたか、これ以上ないデータが、その焼け野原に証拠品として散乱しているからだ。

一方が強烈な情熱から追い求め、一方はそれを受け入れるかどうかの判断を迫られる。

成り立ったということは引き合ったということだけれど

実はその情熱が別の動機に根付いていることもまた、よくあることだ。

その答え合わせは現実として関係の中に発生し、思惑や感情が交錯し、そのストロークが噛み合うか噛み合わないか、その行間に本当の自分が見え隠れする。

他者との経験を通して本当の自分見つけることが、関わりの醍醐味、意味、目的だとすら言える。

その提案が平和的で紳士的であったにしろ、強引で支配的であったにしろ受け入れる側はその提案を判断し、可否を選択する権利がある。途中で判断を変える権利もある。その自由さが担保されていることが重要だ。

僕は昔何度も何度も、その自由さを放棄し、わざわざ不自由な苦しみを味わいに突っ込んでいたけれど、それは幼少期に培った親との関係性…自分に自由意志など許されず、
相手の命令を拒めば生存を脅かされるというセットで育ったことが原因で、それにとことんまで気づくために痛い目にわざわざ遭ってきたようなものだ。

NOが言えない、空気を読んで自分の気持ちが言えず、自分がどうしたいかすら自分でわからないほどに麻痺してしまう。

そんな呪縛からやっと抜け出した僕は、それでも何かしらの「縛り」を強く欲しているのを感じる。

自分と相手に自由を認める。それはつまり、愛だ。

それぞれが自分が何者であり、何を選ぶかを決める。それも、愛だ。

それらをベースにきちんと置きつつ、僕はそれでも、縛り…それが目に見えるものなのか、見えないものなのかはともかく…欲している。

自由な選択を許された上で、自らに縛りをかけにいく。それはつまり、僕の自由意志だ。

自分の持っている知識、情報、そして感覚をフルに駆使し、

ある場面では、仕掛け、案内し、導き、支配する。その責任の重さに武者震いをしながら。

ある場面では、仕掛けられ、導かれ、全てを委ねて自分を解放して、全身全霊で従う。

呪縛の鎖をひとつ残らず引きちぎり、軽さを身につけた僕は、覚悟や責任を伴う重さに魅入られ、前に進もうとしている。

僕に贈られたギフトには、次のギフトのヒントが書かれている。

仕掛けるのが自分なのか?委ねて乗っかるのが自分なのか?

自分への問いかけが続く。

外の世界はかまびすしい。僕は警戒モードを発動し、静かに注視する。

愛しい人を守るために。

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#0152 unexpected intention

自分の中のある先入観や固定観念を崩すのはなかなかに難しい。

今いる状況がつまらない、もしくは不満足であるならば、そもそも自分が不満足であるという判断の基準になっている価値基準を疑ってかかるか、もしくは、意図して自分のルーティーンを簡単なところから崩すことで外からの刺激にさらされるのが手っ取り早い方法である。

僕はでかけた帰りに帰宅する時のルートを毎回変えることで、少しでも頭を柔らかくしようとあがいている。

また、自分では買うことがなかったけれど、人から勧められたものを試しに買ったり食べたりして、ついつい頭を使わずいつもしている選択を変えることで、なるだけ楽をして怠惰にやり過ごそうとする脳の手抜きを揺さぶるのだ。

自分はこういう人間だ、こういう信念がある、こうあるべきだ…そのひとつひとつを、まずは疑ってかかる。その揺さぶりでもぐらつかないものだけが僅かに残り、あとは意外にどうでもよかったりするものだ。日々、その繰り返しである。

なるだけ決め込んだ予定調和を崩していくと、不意に…そう、意図をせず出くわした状況が、面白い相克を生み出す。

なんだ、こんなところにいたんですか。

無意識に探していた何かが突然見つかり、縁が結ばれていく。

考えに考えて見つからなかったというのに。いや、考えているから見つからなかっただけの話なのであって。

もちろんそれであがり、というわけでもなく、次々とまた新しく続いていくのだし、それが前途ってものなんだろう。

そんなわけで、仕事を終え、宵山の喧騒を嫌って帰宅するはずが、どういうわけか祭りのど真ん中に出くわしてしまい、そこで毎年欲しいと思いながら、いつもいつも買いそびれていた蘇民将来之子孫也と記された厄除けの頒布をする臨時テントを偶然見つけてしまった。これはもう買うしかない。明日売っている保障はない。八坂神社で買っている八角のお守りは活用しつつ、所定の位置に「食べられない」ちまきをセットした。

憂いを残さずに爽やかに手放し、次々に新しい場面を歓迎して出迎え、飽きることなく自分を新しくつくりかえ、記憶のスクラップブックに新しい色を加えていく。そしてまた、後生大事に変わらず育んでいきながら、お互いに新しい色を刻み、変化していく。

そのタームを、加速度をつけて進行していく。それが、僕の2024年の、夏である。

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