ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0147 遅れていても必ず来る春

一人で暮らしていると、美味しいコーヒーを入れるのがもったいない。

実家で暮らしていた頃は、自分が飲みたくなって入れればコーヒーメーカーから漂う香りで、ワシもワタシもと親からオーダーが来るので、3人分メーカーで作れば一回で使い切れた。

メーカーが壊れてしまって、いいや、普通にドリッパーとフィルターに挽いた豆入れてお湯注いだらいいんだし、と既に挽いてある豆のパックを買って何年もしのいできたけど、チビチビちょっとずつ飲むもんだから、淹れたコーヒーがすぐに酸化しておいしくなくなるので、1日に何回も入れなきゃいけない。

とうとうそれにも辟易してしまい、インスタントコーヒーを買うようになった。ついにお湯を入れて溶かすだけの安楽さに味をしめてしまった。

お酒が飲めない僕は、コーヒーとタバコが欠かせない。

タバコは加熱式にチェンジして数年、物足りなさもなくなった。

数字三桁が商品名になっている、値段がお手頃で酸味が効いてまあまあイケるコーヒーを、嗜好っていうだけではなくて、日々のモヤモヤを吹き飛ばしたかったり、緊張をほぐしたい動機で、朝仕事の前に飲み、夜も眠れなくなろうがお構いなしに気にせず何杯も飲んでいる。

茶店でコーヒー飲んで楽しく話しながらタバコを吸う楽しみも許されなくなり、タバコが吸えますと謳う喫茶店ですら、加熱式たばこであっても離席して専用ブースへ行って吸ってくださいと言われる始末で、結局タバコとコーヒーは自宅で楽しむだけになった。

友達と電話をしてたりするとつい増えてしまうのだけど、最近、また飲む量が増えている。

たくさん飲むんですね、と言われて、改めてほんとだ、コーヒー飲んでばっかだなあと頭をかきながら、自分の感情に気づく。

今年の桜の開花は少しだけ遅くなるらしい。

それでも必ず春はやってくるし、いよいよ、本当にやってくるのだな、ありがたいことだなあ、などといつもとは違う気分で、何年も何年もずっと待ち焦がれていた、あの春が来るのを迎えようとしている。

遅れてくれたおかげで、毎年一人で楽しんでいる桜並木のお花見に、ちょうど誘えるタイミングになりそうだ。

というわけで、何やら浮かれているのでありました。つまりそういうことです。

とはいえ、コーヒーの飲みすぎには気をつけないといけない…。

またコーヒーメーカー買おうかな。ちょっといいヤツ。

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#0146 寒風の早春賦

人が人に恋心や恋愛として惹かれる時、具体的にどういう相手に惹かれるのか。

似た気質や外見に惹かれる場合もあれば、異なる性質に惹かれる場合もある。

その視点から見ると、ゲイであるというのは、そのありようがある種とてもわかりやすいなあ、と思う。

シンプルに見た目の好みや性的なファンタジー、フェチの好みから肉体関係だけで完結させるという割り切りをする人が多いのは、結婚することや家庭を築くという前提がそもそもないからであり、そのことで逆に、恋人として付き合うという決め事にとらわれず、恋愛ごとでの人と人との関わりにおいて、自分が何を望んでいるのかについて自分軸をぶらさずに済む、とも言える。

見た目の好みやフェチ、萌えるポイントについて講釈つけるのは野暮。人それぞれである。焦点を当てたいのはそこではない。

なぜ、特定の気質を持つ他者に恋愛感情や劣情を感じるのだろうかというところなのだ。

小柄な人は自分より身長が高いとか体格がいい人に惹かれたり、またその逆もあったり。若い人が知性や経験値、包容力に魅入られて年上を求め、年上は自分がロストした若さを欲して年下を求めたり。自分にないもの、欠けているものを無意識に補うため、なのかもしれない。

じゃあそれは自身の劣等感や不全感、コンプレックスの裏返し、または、自分もそうなりたいと憧れるロールモデルとしてなのだろうか?と思うと、厳しい鍛錬をして筋肉質な肉体を誇る人が、相手にも同じような素養を求めて恋愛の対象に設定する人もいる。

ふむ。それは自分と同じ価値観を求めているという意味に取れるし、必ずしもコンプレックス、ではないのかもしれないな。

自分の努力や価値を承認し合うことで、自分のやっていることにOKを出したいために鏡のように相手を欲しているのかも、しれない。それはイコール、努力できず価値が認められない自分をなぐさめるために、不遇の相手を見つけてきて引き合うのと、構造は同じなのかも、しれない。

自分のレベルに釣り合う相手のゾーンを定めて、そのゾーンなら需要と供給がマッチするかな、という無意識の妥協や打算があるやもしれない。自分の価値を低く見積もればおのずと選ぶ相手をも低く見るし、また逆もそうである。

気が合うとか、話が合うから楽しいというのは友達のレベルであり、そのレベルで性的な付き合いもセットにして関係を楽しむ人も多々いるわけだけれど、継続的に引き合い、強く惹かれるというのは、気楽な思いを超えた何かがあるゆえ、だと思うわけで。

それは別に性欲だけではなくて、もっと違う何かしら強い情動のエネルギーが磁石のように作用するのだろうと、なんとなく思うのである。

その磁石のラベルには、愛に似た、しかし愛とは全く違う何かのエネルギーの性質が書かれているように思う。

かくいうおまえはどうなんだ、とブーメランの切先が我が身に降りかかると言葉を失う。

なぜなら、僕は自分が何を楽しいと思い、どんな物事やありようを好ましいと感じるのかについて、その全てを権力者たる親から否定され、言う通りにしろ、従わなければ人生を潰してやる、と脅されて育ってきたという原体験のまま生きてきているからだ。

なので恋愛の顛末は、他者に奉仕をし、喜んでもらうことで初めて自分は生存を担保してもらえるというわけで、悲愴で、義務で、つらく苦しくて、命懸けで、しかも生殺与奪権を相手に最初から差し出すという底なしにトンチンカンなものばかりだったのだ。

そのトンチンカンさをあえて形容すると、「愛されている実感がないと、とてもこんな世界で強く生きていけない、だから愛されるためになら何でもする」と端的に一言でいうとそんなところだ。幼少期の愛着関係がよろしくないとこうなるという典型である。

そんなクレイジーなスタイルでも、お互いに好きであるかのような錯覚は持てるし、それなりの醍醐味があったわけだけれど、当然長く続くはずはなく、それを必死に耐え忍び、関係にしがみついていただけで、お付き合いしていましたという時間が長かっただけに過ぎず、その実質は、不満足と苦しみしかなかったわけである。どうしてそんなことになるのか?だって、その関係を失うことは自分という存在の死を意味するという思い込みが絶対的な真実だと信じ込んでいたんだから。

文字で書くとこの上なく奇妙だけれど、実際それで無意識に長い人生を苦しみながらしのいで今も生きている人が多くいるだろうことは、言うまでもないことだ。

大学時代、ゼミコンパの二次会でメニューを渡され、何食べたい?と先輩に聞かれただけでビクッと驚いて狼狽し、自分の本心や好みを質問されることが生存の危機になる恐怖を無意識に感じていた様子を横にいた友達は見逃さず、ああ、君も苦労しているのだね、と同じ境遇のその友達は見抜き、後々になってその話をしてくれた。

主導権を奪い合い、ルールを相手に押し付けたり、コントロールしようとしたり、または、逆らったり、攻撃したり。当人同士で処理できないものを子どもに押し付け、子どもはその未消化を抱えたまま大人になり、またそれを子どもに押し付ける。くっついたり離れたり、憎しみ合ったり、距離感が近くなる人間関係で起きるあれこれは、枚挙に暇がない。

親子三代、脈々と受け継がれてきた機能不全家庭の呪縛を僕の代で止めてやる、と決意し、親や祖父母の自己形成史分析を手伝い、甥っ子姪っ子の子育て支援にも自分のエネルギーの大半を使い、介護だ何だと10年近く関わり続け、なんとか止めることはできたかなと思う。

おかげで僕は、それ以降だいたいはひとりで気楽にやり過ごす選択をして飄々と今日まで来ている。

あれをしろ、これをしろ、私の要望を叶えろと要求するばかりの相手を引き寄せるのは、自分がそれに応じてきめ細かくサーブして相手の要求に応じることによって初めて、自分が生きていることを認められ、許されるという生存許可証がもらえるという世界観を握っているからであり、恋愛が重く苦しく、命懸けになるのは必然のありようである。

自分を犠牲にして他者に奉仕し、他者に益する存在でなければ人間としてダメなのだというその価値観、信念から世界を定義して世界を見るゆえに。

そしてまた、こんなに自分は我慢して犠牲になっているのだから、その対価をよこせ、と相手からの愛を要求する醜い自分に直面し、そうやってお互いに愛に飢えた相手を引き寄せ、愛を奪い合う修羅場を経験する。

そんなありようをしていることに気がつくのも、そういう現実を創造して引き寄せる経験をして痛い目に遭うからこそであり、骨身に染みて気がつき、そんな現実を作り出している自分の信念を手放すことで、変わることができるのである。

結ばれた関係が末永く続かず、それが3日で終わろうが、半年で終わろうが、それに善悪はない。

避けようのない出会い、結びつきの相手と抜き差しならない関係になったならば、その時にお互いが持つ課題があらわになるだけだ。学びの絶好の機会、とも言える。

相手からは逃げられても、自分の課題と向き合うことからは逃げられない。

経験をしていけば自分は変化をしていくし、求めるものも変わっていく。自分の肉体も容姿も、変わっていく。

そう、プロセス。

で、そのプロセスの先に何を見い出したいのか、というところ。

深入りしたプライベートを開示することのない仕事先の人たちから、いつも明るくて朗らかで、温和で優しい人ですね、などと言われるけれども、その実、めくれば色々あるわけですよ。

つまるところ、まずは自分を許せるのか、自分を愛せるのか、というところ、なんだよね、などと、

気分よく穏やかに毎日を送れるようになり、やっとこさ、字面ではなく体験として、それを実践する入り口に立てたような気がしている。

自分にとって他者、世界はどういうものでありどういう意味を持つのか、の前に、そもそも、自分というものをどう定義するのか?つまり、自分は自分をなんだと思っているのか?に立ち返る。愛というものの向け先はまず自分、なのである。

愛について知り、学ぶことがある種生きる目的であるとするならば、僕の流転の人生にも意味はあったのだと思うけれども、人生の残り時間は折返しを過ぎて着々と少なくなってきているわけで、

では今度それを実践して生きるというターム、有意義に突っ走らねばなと思う、早春なのであった。

まだ寒い気候が続くなか花粉はすでに飛んでいて、くしゃみ鼻水おかまいなし、こんな寒い夜に動画撮りにひっかけてウォーキングに行くべきかどうか悩んでいる金曜の夜であった。

そして幸せに、ひたすら生き抜く。とにかく今、この瞬間を気分よく、楽しく、生きていきましょう、ご同輩。

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#0145 物語の効用

正月早々に大きな地震があって、慌てて災害備蓄の再点検をしつつ、地震で住んでいるマンションが大丈夫だったとしても想定されている震度6強震度7の揺れで周りの木造家屋が崩壊し、火災が起きて火災旋風になって火が回ってきたら備蓄も何もかも無意味になるし、何を持って避難するかとなると限度があるし、となると最終的には少しでもリスクの低い郊外の街に引っ越しするしか解決策はないじゃんか、と途方に暮れ、と思ったらやれ飛行機が、やれ軍事的な緊張が、とスタートから騒がしい。

方丈記に書かれた飢饉、竜巻、地震、大火は、実際に10年ほどの短い期間に京都で起きた出来事であるし、そんだけ一気に災害がやってきたら世を儚んで山にワンルームの庵を建てて引きこもりたくもなるよな、と思うけれど、

それが悟りの妨げになろうとなるまいと、現代社会ではそんな遁世をするのはなかなか難しいことである。

そしてそういう災害リスクは厳然と今も変わらずある。否、巨大な通信システムのインフラに生活全てを委ねている現代社会ゆえ、むしろその被害のダメージは更に大きくなっている。

学校で暗証させられてなぜか今でも諳んじれるのが不思議だけれど、平家物語の冒頭の文章が頭にこだまする。

僕は権勢を振るって暴れたい欲など皆無なので、戦略的無派閥を貫いてきたし、それによって日陰に追いやられて虐げられることなど、屁とも思わない。

むしろ下手に力をもってしまい、無自覚に悪徳を積んで人の恨みを買うほうが空恐ろしい。

何をもって幸福な人生であると定義するかは人それぞれであるけれども、外的な条件付けとして当たり前のように今まで担保されてきた幸福の土台が、根こそぎひっくり返されるかもしれぬ時代に生きているという認識は、多かれ少なかれ皆がすでに感じているのではないだろうか。

物理的にできる対策をして、最悪の事態を想定しつつ、その中でどう生を全うして幸せを味わっていくかについて、よりシリアスに、それでも希望と喜びを見失わないでいるか?漠然と流されていては望まない結末に引きずられてしまうゆえ、僕は真剣に考える。

僕の祖父は3回戦争に駆り出された。無事に生きて帰還している。もちろんだからこそ僕が生まれることができたわけだけれども。

祖父の命日なので、ちょっとゴージャスな晩ごはんを作り、しばし忍びつつ、僕はこのセットの世界の中で、どう生きていくかについて思いを巡らせている。

僕は結婚しないし、自分の子どもを、というのがないゆえ、僕の代で終わってしまうわけで、ごめんね~なわけだけど。

で結局のところ、目標やゴール設定を忘れることなく、今この瞬間に幸せを感じて生きる、しかないのだけれどね。

そして。

こういうセットの世界で、その意味をわかりつつも、共に幸せやあらゆる経験を共有できる誰がを見つけたいし、その手を取って安寧な場所を目指して導いてあげられる相手を求めて生きていく物語を僕は設定して、この世界を生きていこうと思うのだ。さあ、いつ出会えるだろうね。ムフフ。

僕が高揚し、生きる意欲の湧いてくる物語のありようはこんなところである。

この設定の世界の中で、皆さんはどんな物語を紡ぎ、楽しんでいらっしゃるのだろうか。

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仕事で車に乗っているときにラジオから流れてきて一発で気に入り、CD買いに走ったのがもう20年前なんだなと、時の流れの速さに驚くのであった。HYのナンバーは男の子と女の子の声のハーモニーがとても心地よいし、今も時折聴いている。異なる特質を持ち寄ってできるハーモニーの素晴らしさが表現されていて気に入っている。