ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0144 脚本を書いている張本人

お互いに仕事のシフトをなんとかやりくりして一緒に過ごす約束をし、プレゼントと小さなケーキを買って、夜、駅まで迎えに行く。改札で僕を見つけ、人混みをかき分けて喜々として駆け寄ってくる彼女の姿は鮮明に記憶している。20年ほど前の話だけれど。

それはそれでとても楽しく幸せで、でも仕事も大変で人生の状況はなかなか辛く、毎日疲れ気味で、それでもなんとか必死に生きていたんだよな、とほろ苦い気持ちもないまぜで…そんな記憶が僕の魂にはメモリーされているし、

クリスマスの想い出はどちらかというとしょんぼりすることのほうが多かったけれど、あの冬の想い出を回想するだけで穏やかな気持ちになる。これも年齢を重ねるという楽しみのひとつだろうと思う。

「ねぇ、お母さん、友達の〇〇ちゃんと話してたんだけど、サンタクロースいない説っていうのがあるらしいの。でもちゃんとサンタっているよね?」…この時期になると、サンタクロースを信じているまだ小さかった姪っ子が、母親である僕の妹に真剣な顔でそう聞いてきたという話を思い出す。

子どもの夢を壊してはいけないとばかりに、大の大人、というか世界各国の軍隊がここまでやるのかとちょっと驚いた。

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人生のドラマに翻弄され、あるときは絶望し、うなだれ、落ち込み、それでもまた、パパっと膝の砂埃を払って立ち上がり、また頑張ろう、と歩き出し、幸せを感じて空に向かって快哉を叫ぶ。その行き来を例に漏れず僕も繰り返し、今日もとりあえず生きている。

ドラマには必ず脚本がある。僕が好きなプロレスにも脚本がある。

これには脚本があるんだと重々わかりながら見ていても、つい引き込まれ、ハラハラドキドキして見入ってしまうものだ。

しばらくすると、そのストーリーの転がりを予想し、深読みして楽しむことを覚える。

サンタクロースはいるんだよ、と言い聞かせながらも、それがファンタジーだとわかっている。

そしてそれがファンタジーだとわかってはいつつも、ハラハラドキドキして、あるときは不安と恐怖に苛まれ、またあるときは幸せの絶頂を味わう。

その脚本は結局僕が書いている。

脚本の意図は最近おぼろげながら、理解できてきたような気がする。

これからのストーリーの転がりや結末はまったくわからない。でも、とにかくその脚本の場面場面、つまり今を楽しむということでしかないんだよなと。

今のところ今日は誰とも会う予定はない。冷蔵庫を開けたらいつも買っている鶏肉があった。さあ、これで何か作って晩ごはんにしよう。

あのクリスマスは、ちょうどこの曲が発売され、やたらFMでかかっていた時に迎えた年のクリスマスだったなと書きながら思い出した。彼女と二人してCKBいいよね、と珍しく音楽の好みが一致したんだよな、そういえば。

今あの彼女がどこで何をしているのか僕は知らないけれど、きっと幸せにやってらっしゃることだろうと思うし、そう願いたいところだ。

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