人間の先入観は概して的外れで、ことの本質をちゃんと捉えてはいないものだと思うけれど、その先入観という勘違いのおかげで行動を起こそうという気にもなるのだから侮れない。そしてその先入観から導かれた場所で、イメージしていたとのは異なる激しいギャップに出くわし、それで初めてことが始まるかどうかの分かれ道になるのだと思う。
水は高いところから低いところに流れ、風は気圧の高い場所から気圧の低い場所に吹き抜ける。そして、N極とS極は引き合う。
男は女に魅入られ、女は男を受け入れる。そんなステレオタイプな性役割幻想をゲイであっても年齢差や体格差、またはTopなのかBottomなのかのポジション選択で再現する。もちろん、例外はある。
まるで鏡に映る自分を愛でるように同じ属性を相手に求めたり、憧れる相手のようになりたいと激しく焦がれて同一化しようとし、または、相手に対して自分が厳しい鍛錬と努力の末に手に入れたのと同じ果実を要求する。または、そんな鍛錬や努力を放棄した自堕落を互いに慰め合う。
ファザコンなのかブラコンなのか、忘れ得ぬ憧憬を無意識に乗せてしまうのか、自分にないものをねだったり、あるいは共感を求め、ロールモデルを求め、また、支配して思い通りに育てられる愛玩の対象を求めたり。あるときは年下としての立場をわきまえて一歩引きながら、あるときはまた年上らしく振る舞い、年長の役割を演じる。そして敢えて、その関係性を逆転させて一時的に壊すギャップを楽しむ。
良い悪いの価値判断はないけれど、そこには相応の磁力の引き合いがある。
ステレオタイプなフォーマットがありそうに見えて複雑な模様が男女にあるように、ゲイの世界もまた、人の数だけ模様があるのだ。
と、そんな屁理屈が的を得ているか外しているのかなんぞおかまいなく、世界では様々な主体が引き合い、反発し合っている。
何となくこんな人かなと感じた相手がやっぱり自分のイメージ通りだったとか、期待していたのと違うじゃねぇかと憤ったりするだけなんて、そんなのつまんないじゃん。
人は僕を見て、様々な印象を持つ。その印象は相手の培ってきた価値観や信念によってバラバラであり、言ってみれば、人の数だけ僕が存在するようなものだ。
その印象がいいものだった誰かは、僕に近づいてきて距離を詰めてくる。
僕は相手が抱いたイメージを推察しながら、意図してそれを崩すタイミングを測る。
賢そうに見えて実はおバカだったとバラすのか、おバカに見えて実は賢いんたぜ、と見せるのか、クールだと見せかけて、情熱を見せるのか、情熱的であると見せかけて冷静さを見せるのかは、その時次第ではあるけれど、それも要は相手からの見え方であり、僕はあくまで相手の先入観と僕の実像のギャップを正すだけであり、やってることは、正直に自己開示しているだけである。ただ、その開示度合いを微妙に調節しているのだ。
自分のすべてを他者に開示することなどそもそも不可能なのだ。
とはいえ、僕は言っておくけど君がイメージしているようなステレオタイプの人間ではないからね、と釘を刺しておきたくなるのをやめられない。
年齢は記号でしかない。履歴書に書かれているのはヒストリーであり、そのありようが順風満帆だろうが、波乱万丈だろうが、もう終わったことである。大事なのは、そんな過去を踏まえた上で今どうしたいか、であるし、これからどうしたいのかでしかない。若いからだめだとか、歳だからだめだ、なんて、体の良い逃げ口上だから。と、さんざんそういう言い訳をしてきた僕は恥じ入るわけなんだけどね。
先入観でこういう人だと思っていたら、実はこんな人だった、で、それが好印象になるとして、大事なのは、そこから。
ギャップに魅入られて向き合い、属性や肩書を取っ払い、お互い無垢なありのままの個人になったとき、向き合う相手との間に何が生まれているのか?
そこで生まれる高揚と安心感が醍醐味なんじゃん、と僕は思うのだ。
下心の中身は、自分の欲望を満たすことだけなのか?それとも、相手への親愛の気持ちは含まれているのか?それとも、単に相手を思い通りに動かしたいだけなのか?自分の欲望や希望と等分に、相手を存在として尊重し、相手の希望を汲み取る気はあるのか?
賢者モードが来るその時まで、お互いに期待されている役割を完璧に演じられたらそれで終了、という深夜密会の共犯者にすぎないのか?
人が人を求めて近づくとき、その動機は様々である。ときに諍いが起き、喜怒哀楽が嵐のように押し寄せる。
外側を美しく、または逞しく見せようと努力し、美辞麗句を並べ立てることに必死になる裏に、モテることで自分の価値を確認したい、という欲望であったり、他者を通して生存を担保し、幸せになりたい、してもらいたいという強い情熱が見え隠れする。
自分のファンタジーに酔いたいがために、相手の属性を利用する一人よがりのダンスに相手を付き合わせるのも、また、相手に引きずり回されるのもいい加減バカバカしくなってきているところだ。
高揚感を縁に出会って親しくなったあと、それが因縁の昇華なのか、諍いや魂の合一を通してを愛とは何かを学ぶレッスンなのか、それはスタートしてみないとわからない。必ず訪れる別離までの時間が長いのか短いのか、それもわからない。
僕はこの年齢になってもまだそのレッスンの途中で苦闘しているわけで、だからこそ現役なわけだけど、いい歳して寝ぼけているだの痛いだの言われようが知ったことではない。
相手との関係を通して自分を知り、相手を知り、少しでも愛と思いやりをもってかかわっていくことだけを心がけて、誰かとの関係に深入りしたいと希求しているだけのことだ。
それでもなお、スタートするときのあのハラハラドキドキ、全身にエネルギーがみなぎるようなあの感覚をまずは欲してしまう。そして緊張と緩和を使い分け、相手の先入観を逆手に取り、いい意味で相手をたぶらかして欺く仕掛けを忍ばせたくなる。あるときは煙に巻き、意表を突き、開かずの扉を惜しげもなく開け放つ。僕はこれをロマンティック属性と呼んでいる。
緊張と緩和の間にあるピンボールを激しく突き動かし、跳ねっ返りを楽しむのだ。
色恋の嵐に振り回されるようになって30年てとこか。僕はまだ引退はしていない。現役である。まだまだ浮かれる気満々なのだ。
男と女、というと、僕はクレモンティーヌの1994年のバージョンがイチオシ。残念ながらつべからは消されているので、ニコ動にある方で。僕は音源持っているのでひたすらこの30年近く聴き続けている。それはつまりまだまだ現役であることの証でもある。
結局引き合う磁力の強さに抗えるわけもなく、エゴで組み立てた屁理屈なんかどうでもよくなるのだけどね。その引き合う磁力の強さに引っ張られるのに身を任せ、今日もまたあちこちにぶつかっている次第である。イヒヒ。