ゲイの視線、バイの視点。

宇宙と世界は人の数だけある。僕が何者であるかは僕が決める。僕は望むビジョンを表現する…というゲイ(バイ)のブログ。

#0002 自分自身との和解

少し遅くなってしまったけれども、「映画母さんがどんなに僕を嫌いでも」の感想をば。既にDVD化もされているので、ご興味がある方は是非見てもらいたいと思う。

公開が始まってすぐに、娘さんを殺した父親が捕まるという事件が大々的に報道された。

原作者の歌川さんが言われるように、この映画が届くべき人に届くのを祈る。虐待に縁がなく生きてきた人にこそ、特に。原作者の歌川さんと同じ境遇、経験、プロセスをたどってきた人間として感じることなので、あくまで、僕が感じたことだけれども

この映画には希望がある。なので、見るのが辛いと思う人にこそ、見てもらいたいと思う。

希望…僕なりにその本質を自分の心に問うと、それは「自分自身との和解」だとアウトプットが出てくる。

単に虐待する側を責め、裁き、なじったところで、解決するものではない。演じた吉田羊氏が言うように、「未熟なまま母親役を強いられた女性」という視点から、実は、加害者もたどれば被害者だったのだ、という現実が炙り絵のように浮かび上がってくる。

もちろん、虐待、親と子の葛藤はいろんなかたちがあって、一概には言えないし、自分を守るために逃げることも必要だ。僕だって、逃げた。自分の命を守るために。

歌川さんと同じように、僕も家から逃げた挙げ句、腹をくくり、母親がなくなるまでの6年間、直接向き合い、対決し、臨終の瞬間までつきあった。僕にとってもキミツや大将のような仲間もいてくれたし、こうして今日も無事生きている。

吉田羊演じる母親のアップが映し出されると、時折、自身の母親とオーバーラップする。すでに許して、見送ってるからなのか、自分が殴られ蹴られ、包丁をつきつけられたことの怒りよりも、母親自身が抱えていた苦しみのほうが伝わってきた。

友達であれ、身内であれ、真に理解し、癒やしてあげられる誰かがいなかったことの寂しさのようなものがじんわりと感じられた。これははじめての感覚であった。もちろん実際には、母親も色々あったんだよ、というのはわかっていたつもりだったけれども。

母親といっしょにでかけて、色んな話ができなかったことを思い出し、映画の中での太賀演じるたいじ君がとてもうらやましく思えた。

2年前に歌川さんが出られてたお店に伺いお話を聞いたとき、ああ、すごいな、僕はここまで、ちゃんと腹くくれてなかったなあ、と感じた。

何が違うのか。

そう、自分自身との和解だった。僕はまだ自分自身との和解ができていない。持て余しているといったところだ。それが最後のささくれとなって、色々思い悩んでいたときだったので、

ということは、やはり、僕にも、届くべき映画だったということになる。

どんなにみっともなくても、こすっからくても、嘘つきでも、だらしなくても、いいじゃんね。すごい人間じゃなくたって、いいやんね。自分を攻撃するのは、もう、やめていいよね。

生きたい、自分を好きになりたい、人の優しさを素直に受け取れる自分になりたい、そんな激しい感情がとめどなくあふれてくる。

…そして何より、主演の太賀が可愛すぎるw

(昨年自身が別のSNSに投稿したテキストを加筆修正したものです)

原作者の歌川さんのブログはこちら。

utagawataiji.blog.jp


「母さんがどんなに僕を嫌いでも」予告編